2019-04-04

補陀洛山寺

補陀洛山寺の画像

 「補陀洛山寺」は天台宗の寺。天福元年(1233)、「源 頼朝」の家臣であった下河辺行秀が出家の後にこの寺を開基「智定房上人」と呼ばれた。約800年の流れに「千手観音像」(重要文化財)が鎮座している。

補陀洛山寺正面の画像

【補陀洛山寺正面】

 ある日、好きな番組の サスペンスドラマを見ていると、以前訪れたことのある「補陀洛山寺」(和歌山県那智勝浦町)が物語の素材として出ていました。数年前「熊野那智大社」参拝をした時のことです。JR「勝浦駅」から乗り継いだバスは那智山へ向かう山道へと進入。と、上り坂になる手前でした。走行中の窓から「寺」が見えたのです。瞬時に通り過ぎてしまいましたが、歴史を感じる姿・雰囲気が残像として焼き付き、目的の「熊野那智大社」はそこそこに、帰りは「那智駅」で途中下車。海岸沿いの国道42号線を横切り約5分も歩いたところにその「寺」はありました。山頂の賑わいとは真逆の静寂に包まれていました。「補陀洛山寺」境内に入ると左手に屋根瓦のラインが美しい本堂、手前のお堂には5M弱の和船が収められています。本堂に隣接して建っているのが「熊野三所大神社」。これは熊野信仰の特徴であった「混然一体」といわれる神道・仏教・修験道が共存していた時代の貴重な証しであり、明治時代に行われた「神仏分離」から免れた希少な歴史遺産でもあるのです。

補陀洛山寺南側面の画像

【補陀洛山寺南側面。ラインが美しい。】

「渡海上人」と「渡海船」
建築物にも興味深い私ですが、今回は想定外の経験ができたことに大満足なのです。バスの中から見えた一瞬の光景に気を惹かれ、訪れてみると凄いエピソードに出会ってしまったのです。厳しい修行を終えた僧はやがてこの寺の住職となるのですが、その後に過酷な儀式を受けなくてはなりません。30日分の食料と灯火用の油を積み込み、入口の木戸は釘で固定され、小型の和船で南方数千マイルの彼方へ出航するのです(補陀落渡海)。その結果は100%「死」への旅立ちを意味しています。最新装備のマグロ船ならともかく、5m未満の無動力の和船で外洋航海は不可能でしょう。「補陀落信仰」というものが「観音浄土」にある無垢世界補陀落山に往生することができる・・。それは「死」という概念の複雑さを秘めた「捨て身の儀式」とも言えます。この儀式はここ那智勝浦だけではなく、高知県足摺岬・栃木県日光・山形県月山でも同様なことが行われていたという記録が残っていますが、その半数以上は熊野那智で実行されていたのです。境内にある石碑には「渡海上人」の名が刻まれ、平安前期から江戸中期までに25人の名前を読み取ることができます。これら「渡海」の儀式で全員が死亡したのは当然のことではありますが、その中で一人の僧だけは大きく異なりました。僧侶は「金光坊」という名前でした。読経の流れる中、大勢に見送られ出航するのですが、戸を破って「脱出」し近場の小島に上陸してしまったのです。結果、知らせを受けた役人は「金光坊」を海へ突き落し殺害。「渡海」の儀式を成立させたのです。

熊野三所大神社の画像

【熊野三所大神社。通常は管理人不在も、建物は完璧に手入れされている。】

 「金光坊」の出家は十代半ばでした。住職の座に就くには程遠い若さであった金光坊には切り去ることの出来ない記憶がありました。三代前の住職が「渡海」の当日、普段に増して静かな表情で小船に乗り込みました。その「裕信上人」を見送ったのが金光坊27歳の時でした。「裕信上人」が同じ田辺(田辺市)の出身だったことがより親しみを持たせ、日頃から読経に没頭している物静かな姿に「僧」としてめざす自身の理想を見ていたのです。もう一人はその10年後に「渡海上人」として船出した「正慶上人」。61歳になる住職は小柄な体格でシワの多い顔は随分年上に見えていました。普段からの気さくな応対に本山僧・住民からの信頼は絶大なものがあり「渡海」当日、集まった大勢の住民に囲まれ、溢れんばかりの笑顔で接する「正慶上人」、泣いているのは見送りの住民たちだったのです。「裕信上人」は静かな表情、「正慶上人」は離岸の時まで笑顔で手を振りながら没して行った。確実な「死」に対するこの差は何だったのでしょう。この27年後、「金光坊」61歳は「補陀洛山寺」の住職として「渡海」の日を迎えました。が、結果「脱出」することになり役人たちに殺されてしまうのですが、私は逃げた「金光坊」の選択を許したい気持ちで一杯になってくるのです。「宗教と死」・「修行と死」・「庶民と死」考えたらキリがありませんが、残りの人生が見え始めた昨今の私は、どんな船出をするのでしょうか・・・。

補陀落渡海船の画像

【補陀落渡海船の復元。詳細データはないが、絵巻を元に復元された和船。内部は約1畳あり入室後は釘で閉ざされた。】

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