2019-04-04

「石炭王」伊藤伝右衛門

 8:00からの15分はテレビの前。「連続テレビ小説」への依存度は歳を経るにつれ増えた気がする。相性の合わないストーリーは毎朝がストレスで始まり、 このシリーズが終了するまでは我慢の朝。「見なけりゃイイ」と分かっているが、変わらずこの15分はテレビの前に座っている。ここ数年では一番と思っているのが 現在放映中の「花子とアン」。物語が始まって数日は極フツ~の感じで見ていたが「あれっ。人物の名前は違うけど、これは伊藤伝右ェ門と白蓮」。と気づいてからは 集中力も倍化。 8年前に「建築技術」の取材で現地を訪れていたのです。原稿通りの内容に大満足。偶然にもHPのリニューアル案が進行していたこともあり、 「これも何かの縁」と早速掲載したのです。

伊藤伝右衛門邸

伊藤伝右衛門邸画像

【旧長崎街道に面した伊藤邸、表門は福岡天神から昭和9年に移築された。】

「筑豊の炭田王」伊藤伝右衛門邸が福岡県飯塚市に保存されています。2300坪の土地に床面積300坪の木造家屋は庶民の目からは大きく視界を割ってしまいます。 そうなのです。「財閥」のお屋敷なのです。増築されていますが「近代和風建築」といえる「粋」なお屋敷なのです。最初に建てられた部分は明治30年、 旧長崎街道に面した平屋には茶室まで備えられた立派な屋敷でありました。それは、日露の戦争における「石炭」というエネルギービジネスの結果でもあり、 財閥として船出した「伊藤家」の1番旗でもあったのです。その後、増築は大正・昭和初期とおこなわれたのですが、それはまさに「伊藤伝右衛門」の一生を語る 「語り部」でもあったのです。

伝右衛門邸の中座敷画像

【玄関は和装の白蓮を思いやる伝右衛門のさりげない優しさで上がり框が低くされた。簡素に見える中座敷はかなり繊細な仕上げになっている。】

襖の引手の画像

【表座敷に統一された襖の引手。石炭運搬に使われた「五平太舟」を基にしている。】

伝右衛門は万延元年(1860)穂波郡大谷村(飯塚市幸袋)で父伝六の長男として生まれました。現在に暮らす人からはとても想像できないほどの「究極の貧困」 であったといいます。しかし、当時に暮らした人々の概ねが私の想像する「貧困」とはかなりな認識のズレがあり、その時代においての「貧困」はその場に生きた 人々にとってフツーの状態であったし、隣近所・親戚云々「こんなもんだ・・」と無意識に助け合う庶民の生活があったと思います。そこから150年経過した現代社会は 「飽食の時代」と呼ばれ、言いようの無い明日への不安を抱きながら生きている私がいます。伝右衛門の「究極の貧困」とはどれほどの苦痛であったのだろう。 その貧困から財閥へ・・そうなる究極の公式が存在したとしても現代に当てはめる条件は失せてしまった気がします。幕末の終盤にあり「目明し」という職業をしていた 父親、現在の職業でいえば警察官が近いかと思うがむしろ消防団員というほうが近いかもしれない。なぜなら父伝六には「魚の行商」という本業があったのです。 明治へと時代は移り「鉱山解放令」が出ると父親は飯塚の山野を歩き石炭の露頭を探してまわる「狸掘り」と呼ばれる手法で採掘に明け暮れていたのです。それは失敗の 連続でありました。その都度伝右衛門は出稼ぎに出されたのです。それでも父伝六はめげずに挑戦し続けました。同時にそれは家族4人の苦痛の明け暮れでもあったのです。 食べ物がなくなり堤防の草をむしり、それを麦ガユに入れて飢えをしのぐ暮らしも度々であったといいます。そんな厳しい生活を送る中、地元筑豊では石炭を求めて 多くの人が溢れていました。それはまるで外国映画のゴールドラッシュのような賑わいになっていたのです。「黒いダイヤ」と呼ばれた石炭の魅力に多くの人々が 夢を求めて集中したのです。出願提出すれば誰でも採掘できるという「鉱山解放令」の容易さが招いたパニック現象でした。政府はこの混乱状態を回避させるため、 新法「日本坑法」を公布したのです。従来の許可はすべて白紙となってしまいました。その後、坑法そのものの大型化は企業組織をより高度化させ大資本へと成長させて いったのです。その中にあり父伝六の「狸堀り」はマイペースで続けられていきました。横穴を人力のみで掘り進むやり方はまさに小規模掘削の極みでありました。 そんな親子の生活が大きく変わる出来事が明治21年にやってきたのです。伝右衛門が士族の娘ハルと結婚したのです。確立の薄いアクシデント的結婚は「夢」のような 出来事であり、大多数をしめる庶民階級からは羨望の的となったのです。同時に士族から嫁を迎えた現実は社会的立場も有利に展開し、その後共同経営に至った 相田炭坑買収はまさに伊藤家が財をなす明確な基盤でもありました。相田炭坑に続き共同経営者の一人、中野徳次郎と「牟田炭坑」を開坑。しかし、良質の石炭では なかったため中野はこれを放棄したいと言い出したのです。しかし、60歳で亡くなった父伝六と飯塚の山野をくまなく歩んだ経験とカンはしっかりと受け継がれて いたのです。相田炭坑の経営権を中野に譲り渡し、その代わりこの牟田の炭坑を単独で経営したのです。粗悪ともいえる硫黄を含んだ石炭を掘り続けるのですが、 もっと最悪の事態を迎えてしまいます。「断層」に行き当たってしまったのです。どれほどの厚みがあるのか解らない・・。地下地盤調査のテクノロジーが現在ほど 進歩していたはずもなく、伝右衛門を取り巻く環境は不安と絶望の頂点であったと思います。時間と金をかけた「断層」への挑戦は「バクチ」と言ったほうが適切であった と言えます。しかし、伝右衛門のカンはその不安を短期にくつがえしてしまったのです。結果、その「断層」は三尺ほどでしかなくその下には良質の炭層が無限とも思える 分厚い層で眠っていたのです。ますます財に拍車がかかり、名実ともに「石炭王」として地位を築いていったのです。「カン」の凄さもありますが、「運」の強さが際立つ 伝右衛門は政治・経済における一代「風雲児」として活躍したのです。

伝右衛門と白蓮の結婚写真

【結婚当時の伝右衛門と白蓮】

伊藤伝右衛門の妻「白蓮」

二階増築の画像

【京風に増築された二階建て。白蓮の部屋がある】

明治43年、苦楽を共にしてきたハルが亡くなりました(享年43)。結婚して22年の歳月が流れていたのです。伝右衛門にとって妻ハルの存在は大きく、伊藤家が ここまでの地位と名声を築いた根源はハルとの結婚により始まったのだと言って過言ではありません。長者番付に名を連ねた伊藤家にあり、その妻としての存在は 重要でした。大所帯の切り盛りという役目の裏には「世間体」という強烈な必須事項があったのです。当然のごとく周囲の関係者は動き始め、早々に後妻候補をあげて きたのです。
伊藤伝右衛門52才、柳原白蓮(燁子(あきこ))27才の結婚が成立したのは明治44年3月のことでした。白蓮は伯爵柳原前光の庶子(妾の子)として誕生。訳ありの出生 ではありましたが、本家に育ち伯爵夫人を実の母親と信じ公爵の娘として成長していきました。柳原家といえば京都における五摂家に次ぐ名門伯爵家として知られて いましたが、当時における名門と称される縁組には政略的婚姻はめずらしいことではありませんでした。柳原家においても例外ではなく、移りめく時代において公爵という 称号が外から見た目、特に庶民から眺める優雅な現実は薄れ始めていたのです。白蓮はまだ華族女学校(現学習院)在学中であったのですが躊躇する間もなく親戚筋の 北小路子爵家へと嫁いだのです。白蓮16才のことでした。しかし、結婚生活は5年で破局。1男を残して実家へ戻るのですが「出戻り」となった白蓮に対する家族の態度は 厳しく冷ややかな連日であったといいます。その環境から逃げるように歌塾「竹柏園」の門下生となったのです。佐々木東大教授以下、著名な歌人が席を置いている 一流歌塾で学び、その才能は見事に開花していったのです。当時人気であった歌誌「心の花」の常連になったころ、伝右衛門との再婚話が持ち込まれたのです。25才もの 年齢差、上流階級育ち、超美人というシチュエーション。人々はそれを話題に大騒ぎであったそうです。伝右衛門は白蓮を迎えるために本邸の大改修をして花嫁の到着に 備えたのです。

洋間にはイタリーから輸入した大理石を使ったマントルピース、英国製ステンドグラスを用いた京都風の二階建て、これは新婦白蓮に対する気持ちはもちろんのことですが、 伝右衛門の心の中には「公爵」と「石炭王」という言葉が複雑に交錯していたのでしょう。その後大正に入ると伝右衛門は巨費を投じて大分別府、福岡天神に二つの 「赤銅御殿(あかがね)」を建築したのです。これが、白蓮だけのためにであったかどうかは定かでありませんが、白蓮がこれらをベースに歌界・社交の場として多くの 時間を過ごしたのは事実なのです。そしてこの豪華別邸から二人の離婚悲話は始まっていきました。今回私はあえてこの離婚劇について語ろうとは思いません。 伝右衛門、白蓮が生まれ育った星の下、これほど微妙な悲話はほかに無い・・。そんな気がしてならないのです。

マントルピースの画像

【一階洋間の西面に設置されたマントルピース。イタリアから大理石を調達した。】

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